令和の米騒動のその後に思うこと〜お米は高すぎても、安すぎてもいけない〜
- 山根製菓

- 2 日前
- 読了時間: 7分
以前、日本のお米を巡る価格の乱高下について記事を書きました。
政府の備蓄米放出、米価の高騰、外国産米の流通拡大。当時は、消費者にとっても、生産者にとっても、お米を扱う事業者にとっても、非常に不安定な空気がありました。
あれからしばらく経ち、最近ではお米の価格が少しずつ下がり始めているという話も耳にするようになりました。
一時期の高騰を考えれば、消費者にとっては少し安心できる動きかもしれません。
ただ、米菓メーカーとして感じるのは、
単純に「安くなって良かった」という話ではないということです。
お米は、高すぎてもいけない。でも、安すぎてもいけない。
この当たり前のようで難しいバランスこそが、今のお米を巡る一番大きな課題なのではないかと思っています。
昨年から続いた、いわゆる「令和の米騒動」では、お米が生活必需品でありながら、需給の混乱や価格変動によって大きく振り回される姿を見ました。
一時的に価格が上がり、消費者は負担を感じる。
その一方で、価格が急に下がれば、今度は生産者の経営を圧迫する可能性がある。
つまり、お米の価格が動くたびに、作る人も、売る人も、買う人も振り回される。
本来、お米は私たちの食卓を支えるものです。
それがまるでマネーゲームのように扱われてしまう状況には、どうしても違和感があります。
価格が上がったから価値が上がったわけではない。
価格が下がったから価値が下がったわけでもない。
お米の価値は、本来もっと別のところにあるはずです。
前回の記事でも書きましたが、今回の騒動や価格のつり上げは、一時的な動きとしていずれ落ち着くのではないかと感じていました。
実際に、最近は価格が少しずつ下がり始めています。
ただし、ここで大事なのは、以前のような安すぎる状態に戻ればいいという話ではないことです。安いことは、消費者にとって一見ありがたいことです。
でも、安すぎる価格が続けば、生産者が利益を出せなくなる。
利益が出なければ、続ける人が減る。
続ける人が減れば、生産量も減り、結果的にお米の産業そのものが弱くなっていく。
それは、長い目で見れば消費者にとっても決して良いことではありません。
本当に大事なのは、安さではなく、適正な価格で安定することだと思います。
それには、政府の介入をやめることと規制緩和だと思います。
自由競争にさらされていないが為に、価値創造をあきらめている。
日本のお米の品質は世界で見ても高品質なのだから、価値向上はもっと図れるはず。
そういう循環がなければ、日本のお米の未来は強くなっていかないのではないでしょうか。
そして、もう一つ避けて通れないのが、生産者そのものの減少です。
お米の価格が上がった、下がったという話はどうしても目立ちます。
しかし本当に深刻なのは、そのお米を作る人が減り続けていることではないでしょうか。
これまで日本の農業は、小規模な農家や兼業農家によって広く支えられてきました。
それは日本らしい形でもあり、地域の農地を守るという意味でも大きな役割を果たしてきたと思います。
ただ、今後もその形だけで成り立つのかというと、
かなり難しい局面に来ているように感じます。
高齢化が進み、団塊世代のリタイアや離農も本格化していく。
相続や後継者不足によって、農地の維持そのものが難しくなる地域も出てくるはずです。
つまり、これは一時的な米価の問題ではなく、農業の担い手そのものが減っていく構造的な問題です。
現在のように、小規模・兼業農家に広く支えられてきた仕組みを前提にしたままでは、いずれ限界が来るのではないかと思います。
もちろん、小規模農家や兼業農家を否定したいわけではありません。
むしろ、これまで地域の農業を支えてきた大切な存在です。
ただ、これからは生産者がきちんと利益を出せる仕組み、農地を集約して効率よく作れる仕組み、そして若い世代や法人が参入しやすい環境を整えていかなければならない。
そうしなければ、お米の価格が一時的に安定したとしても、長期的には作る人がいなくなってしまう。
お米を守るというのは、単に価格を抑えることではありません。
作る人が続けられること。
次の世代が入りたいと思えること。
そして、作られたお米がきちんと価値として消費者に届くこと。
その循環を作ることだと思います。
もう一つ、価格や生産者の問題と同じくらい重要なのが、長く続くコメ離れです。
お米が嫌われたわけではないと思います。
ただ、現代の生活の中で、お米を炊くという行為そのものが、少し手間になっているのは事実です。
洗米をする。水加減を見る。炊き上がるまで待つ。食べ終わったら釜を洗う。
昔は当たり前だったことが、忙しい日常の中では少し負担になる。
一方で、パンは袋を開ければすぐに食べられる、運べる。麺類も手軽に調理できる。
ちなみに、私自身もパンは好きですし、ラーメンもパスタも好きです。
だから、「お米だけを食べるべきだ」と言いたいわけではありません。
食の選択肢が増えることは、とても豊かなことです。
ただ、その一方で、お米との接点が少しずつ減っていることには、米に関わる仕事をしている立場として危機感があります。
だからこそ、私たちのような米菓メーカーにできることがあると思っています。
お米を炊かなくても、お米のおいしさを楽しめる形を作ること。
せんべいもそうです。ライスチップスもそうです。
お米を主食としてだけでなく、おやつとして、間食として、贈り物として、そして海外の人にも伝わる食品として届けていく。
お米との接点を増やすことが、結果的にお米文化を未来につなぐことになるのではないか。
私たちはそう考えています。
お米は、日本の食文化の中心にある食品です。
でも、その価値は「昔からあるから大切」というだけでは伝わりません。
今の暮らしに合った形で、もう一度楽しんでもらう必要がある。
炊いて食べるお米も大切です。
でも、それだけがお米の楽しみ方ではありません。
おにぎりもある。米粉パンもある。せんべいもある。ライスチップスもある。
お米の形が変わっても、お米の価値は変わらない。
むしろ、形を変えることで、新しい世代や新しい市場に届く可能性が広がるのだと思います。
そして、米が余る局面があるなら、そのお米をどう活かすかも考えなければなりません。
余ったから価値がないのではありません。
余ったお米を加工食品に使う。新しい商品として届ける。海外市場にも目を向ける。
そうした動きが広がれば、日本の米産業全体の可能性はまだまだ広がると思います。
生産者がしっかり作る。加工業者が価値を加える。販売者がきちんと伝える。消費者が納得して選ぶ。
この流れができれば、お米は単なる価格競争の商品ではなく、もっと強い産業になっていくはずです。
最近、井上雄彦先生の『バガボンド』を読み返していました。
物語の終盤で、宮本武蔵がお米作りに向き合う場面があります。
剣の道を歩んできた武蔵が、土を耕し、稲を育て、人が生きるための糧を作る。
その描写を読んで、改めて感じました。
お米は単なる農産物ではない。
日本人にとっての暮らしであり、文化であり、どこか精神的なアイデンティティとして残っているものなのだと思います。
毎日の食卓にあるからこそ、普段は意識しない。
でも、失われそうになった時に、その大きさに気づく。
今回のお米を巡る騒動も、そういう意味では、お米の存在を改めて考えるきっかけになったのかもしれません。
私たち一社で、日本のお米を救えるとは思っていません。
ただ、お米を使った食品を作る会社として、お米の価値を伝え直すことはできると思っています。
価格に振り回されるのではなく、価値として伝えていく。
安さだけではなく、おいしさや楽しさ、文化としてのお米を届けていく。
お米を守るというより、お米をもっと楽しんでもらいたい。
その積み重ねが、結果としてお米文化の未来につながっていけば嬉しい。
そんな想いで、これからも米菓づくりに向き合っていきたいと思います。



